昭和49年01月30日 朝の御理解



 御神訓 一、「縁談に相性を改め見合すより、信(まこと)の心を見合わせよ。」
     一、「家柄人筋を改むるより、互いに人情柄を改めよ。」

 教祖のご時代に、例えば、縁談に相性を言わないと言う事を言い出されたと言う事は、大変これは度胸のいる事であったと思うですね。それを例えば迷信。どんなに相性が良いからと言うて決してそれは幸福になると言う事ではない。昨日もある方にお話した事でしたけれど、奥さんが中々火の性のように激しい方。ご主人が冷静というか何とはなしに、冷たいというか、水の性の様な方。そこで奥さんがこう燃え盛っていかれるのに、お父さんが上からしゅんとこう、消してしまう様な事になってきておる。
 それが本当の幸せの元というか繁盛の元になっていない。そこでお宅のご長男は、二人の良い所を、ま良い所悪い所をもでしょうけれども、その中間を行く様な感じの性格の方だ。そこで結局両親が子供を中心という生き方に改め合うていく。激しい者は少し穏やかに。冷たい者は少し暖かに。そこにです改め合うていくと言う事。そこん所に焦点を置かなければいけない。私は相性を見合わすより、信の心を見合わせよと。真と言う事を信心の信という字を書いておられるですね。
 人偏に言という字。こらまぁ私の性分だからと言うたら、信心はありません。信心は日々の改まりが第一だと。信心は本心の玉を研くのが信心だと。しかもそれは限りないもの一生掛けてのもの。もうこれだけ改まったから、これで良いと言う事は決してない。日々の改まりこそが第一である。又は本心の玉を研いていくと言う事が信心だと。そういう意味での、私は真と言う事真の心を見合わせよと言う事を、信心の信という字を以って信の心を見合わせよと言っておられるのは、そう言う事だと思う。
 どんなに性格的に相反するというか、しておってもお互いが真の信心を頂いて、改まり合うていこうと。又は改まり合うて行きましょうと。例えば夫婦のものが根本にそれを置いておる限り、必ずおかげが受けられると思う。是は私の性分ですからと譲らない。是ではおかげにならん。家柄人筋を改まるより互いに人情柄を改めよと。人情と言う事は人の心と言う事でしょう。自ずとその心が変わってくる。
 そこに温かい雰囲気が生まれてくる。昨日申しましたまぁ普通でいうなら。火の性と水の性と言った様な性分の方達がです。長い夫婦生活をして、そして燃えると消すと言う様な生き方で、今日まで来ておる。お互いが改まり合おうとしてない。御道の信心をさせてもらうなら、本当に改まる以外はないですねと。例えば問題があっても、その問題を通して、その問題そのものを砥石と思うて、本心の玉を研いて行きましょうやと、親子が夫婦が話し合える雰囲気というものがです。
 御道の信心をさせて貰いよりゃ、必ず出来てこなければならぬと言う様に、教えられてあるのです。ですからどんなに根性がしっかりしておろうがです。根性がなかろうがです。改まり合うて行こうと言う精進が、日々なされる限りです。必ず夫婦の中にも親子の中にも、よい雰囲気が生れてくる。おかげの頂けれる雰囲気が生まれてくる。ようやく受けものが出来ておると、それが何かの調子にもろくも崩れてしまう。夫婦の言い争いなら言い争いと言った様な事でです。
 はぁそういう問題がある時に、ここは私が改まらにゃいかん。ここは俺がもう一つ研いていかなければいかん所だと言う様にです。そう言う事を私はここでは信の心と。おかげは和賀心にありと。いうなら和賀心和らぎ賀ぶ心にあるんだと。相性が良かったから幸せになったというのと。もう言うならばだた目が違う。相性がようて人間が幸せになるなら、それこそ金の草履わらじを履いてでも探すが良い。そらきっと相性の良かつがおるでしょう。そう言う事が如何に間違いであるかつまらない事であるかと。私はこの信の心を見合わせよと言う事を、信ずるの信というじを書いておられる所にです。
 自分が今信じておるという事を改めていくと言う事、より本当な事に例えばほんなら、相性とか何と申しますかね。暦の上に現れてくる所の、まぁ私共はそれを迷信と言うて、一笑に付しますけれども。けれども永年それに頼って生活してきた人達。例えば日柄を言うたり方位を言うたり、それもやはり段々極めて行くと、一つの学問になるぐらいな系統だったものになってくる。例えば人相とか手相とか、易学と言った様な学という文字がつくようにです。一つの学問になってくるくらいなものはあるように思います。
 けれども私共が和賀心を目指して、改まり合うて行くという前には、一切のものが消えてなくなるのです。いわゆる不幸になる基が消えてなくなるのです。金光教祖の一番素晴らしいとこ、そこだと私は思うのです。因縁を言うたり又は日柄方位を言うたり、相性を言うたり。もう愚にも着かないとまでは言えないかも知れない。一つの学問として矢張り、見識のある人はそれを言うておるのですから。
 まんざら嘘だとは言えないかも知れない。けれどもそう言う事に、万物の霊長と言われる人間が、左右されて世間を狭うして行くような生活から脱皮する信心、金光様のご信心は。自由自在な天地の中に生かされて生きておると言う所の、喜びを謳歌しながら称えながら、神恩報謝の心を現して行こうというのが、御道の信心なんです。成程相性が悪かったと日柄が悪かったと、家を建てるのに家相が悪かったから、繁盛しないと言う様な事が事実あるかも知れません。
 けれどももしその家に住む人がです。もし愈々結婚をする、相性が悪い人と結婚をすると致しましても、いや相性の合わない人が結婚しておるとしてです。不幸せであると致しましてもです。ひとたび真の信心を分からせてもらう。言うなら教祖の説かれる所の御教えを分からせて貰うて、それを行じて行く事になってくる所に、自ずと成長してくるのが、和らぎ賀ぶ心和賀心なんだ。
 その和賀心を目指すというか、和賀心が育ってくるという前にはです。どういう因縁があろうがどういう相性が悪かろうが、どんなに家相が悪かろうがです。その家は繁盛してくる。相性が悪かってもそう言う事は問題でなくなってくる。というほどしの尊いもの。言うならば信の心を見合わせよと言う事。信の心を見合わせよと言う事は、信ずる心を見合わせるのである。信ずる心を改めていくのである。
 それは例えばとにかく、表に出る時にです、あれは右か左じゃったか、どっちかとにかく絶対右足から先に出さにゃいけんという人があるんです。嫁さん達が左足からしよると、こらこらちょっと待たんのち言うちから、出直させ今んとはあんた、左足から先出たごたった。右足から先出さにゃろくなこつなかっと言うて。だからそれを信じきっておるとですね。やっぱそれが本当に良か事になる。
 所が人間ですからいつか迂闊にして左の足どん出て、今日は左の足を先出ぇたけんで、交通事故に合うたとい鵜事になるかも知れません。まあ私達は笑い話のような事ですけれども。それを信じておる人がある。信ずると言う事はしかしある意味では素晴らしい事。だから私は迷信とても信の強い人はです。迷信でも私は精神の一つの過程だと思うです。その道すがらだから本当の事がその人がもし分かったら、その本当の事を信ずる事になる。神は信ずるものを信ずと仰せられるようにそこに矢張り信の働きという。
 私は今日初めてここん所に気付かせて頂いたような気がする。信の心を言う事を。信心の信という字で、表現しておられる事がです。私共の、信ずる心をより本当なものへ、より本当な事へと改めていくと言う事なんです。それを一生是が本当だと思い込んで、本当でもないいうならば、本当じゃないと言う事は無いやっぱ本当。けれども程度の低い本当な事を本当と思い込んでしまう。
 だから思い込みが強いと言う事は素晴らしい事ですけれども。私は思うもう今日の信心は、明日は言うならば嘘だと。言うなら真実の事。真理とでも言おうか。真理を愈々追求していくと言う事になってくる時にです。ただ頭で追求しただけでは役に立たん。自分の心が改まっていく。自分の心が研かれてくる。自分の心に光が灯る大きくなる。その光に、今まで照らし出されておった分野というものが広うなってくる所に、はぁここにはこういう間違いがあったと気付くのである。
 信心をそれは進めていくと言う事。信心を進めていくと言う事はです。それはそうでしょう子供と大人とが、本当だと思っている事が違うでしょうもん。けども子供は子供なりに、矢張り本当なのですから。大事にしておるというものであってもです。段々そこが分かってくると、そういう事は問題じゃなくなってくる。私共の若先生がまぁだ、中学校に行く位まで、箪笥の引き出しに一杯、パッチンとラムネの玉を入れとったち言う。宝物のようにして入れとった。長年かかってから儲けとるとです。
 ラムネの玉とパッチが一杯ある。こまかもんにやらんかち言うたっちゃやらん。大事なものなんです。そるきんち言うちから、中学段々高校になってからまで、それをするち言うたら、それは馬鹿です。そして段々分かって、こういうものが何にもならないものだと言う事が分かってきて、より本当なものを求めていく。だからより本当なものだと思うておるものをです。いうならばこの世はそれこそ、金のようだと地獄の沙汰も金次第だと。金さえありゃ人間が幸せだと。
 段々思うてくる時代があるでしょうね。私共も過去においてはそう思うておった。そこで、段々信心をさせて貰い、自分の心の光というものが、大きゅうなってきて、その分野が広う、その光に光出されてくるようになったら、要らんというわけじゃないけれども、徳の裏付けのない羽ぐらい、危ないものは無い、怖いものはないと言う事が分かってきた。丁度いうならば、培菌の着いた牡丹餅のようなもんだ。
 それを人にやったり子供に譲ったりするから、かえって金を貸してやったために、逆恨みをされたり財産を残してやったばっかりに、子供が出来損のうたりと言う事になるのです。金も欲しい物も欲しい。人間が幸せを願うからにはやはり金が欲しい。そういうものがです、欲しいと思わなくなってきた。そこから言うなら我欲が取れだした。我情が取れだした。そういう思いを捨てる事が出来るように、段々なってきた。それは本当の事が分かってきたからである。そら金、金、金と言うてこうやって。
 それは丁度、若先生が子供の時にラムネの玉やらパッチンやらを、箪笥の中に大事に取って負った様なものじゃなかろうか。何にもなるもんじゃない。いいやむしろ害にこそなれ、益になる事は無い。と本当に段々分かってくる時にです。我情我欲が離れてくる。我情我欲が離れてくるから、必要な時必要な物が、必要に応じて頂けれる世界が生まれてくる。合楽教会の、現在の立ち行きというのは、ここ二十数年間、一切がそれで来たんです。決して蓄えは何にも無い。
 けれども必要な時には、必要に応じて頂けて来たという事実を、皆さんが見たり聞いたりしておるわけなんだ。ははぁああいうおかげの世界がある。為には私が言う所の心の状態というものを、信じておると言う事を、より本当なことへ信じ変えていかなきゃいけない。そこにはです例えば相性とか、日柄とか方角とか言う、もうこれを本当に迷信だと分かってくる。問題でなくなってくる。火の性の人が段々水の性に変わってくる。水の性の人がまた火の性にも変わってくる。
 そこに中庸ちょうど良い様な心というものが出来てくる。私は火の性じゃ一生火の性で終わるなんて言う様な事があるはずはない、信心においては。信心とはわが心が神に向かうのを信心というのじゃと仰るように、わが心が神に向こうて一歩一歩近付いていく。それが、改まり合うて行くと言う事です。本心の玉を研いていくと言う事なんです。こらもう、確かにそうなんです。ほんならここで皆さんが、一年なら一年間本気でみっちり信心の稽古をしてご覧なさい。
 今まで思い込んでおった、大事なものだと思っておる物が大事でなくなってくるです。そしてより大事なものがあった事に気がついてくるです。ぞうたんのごつ、私は金が欲しいばっかりに、今一生懸命に合楽にお参りしよるというとが嘘じゃない。それでもやっぱ、おかげ下さるんだものね。金銭のお繰り合わせを願うと、やっぱお繰り合わせを頂くんです。そらもうたまがる。それは親先生のお取次ぎを頂かせてもらえば、おかげが頂けれると信ずるから、おかげになって現れてくるのだ。
 親先生はあげなこつ言いよるばってん、ほんなこっじゃろかと言うたらそれまでのもの。いくら親先生が力があったと言うても、駄目なんです。ここでは皆さんが、私のお取次ぎを信じてくださるから、金銭だけのことじゃない一事が万事、人間のあらゆる難儀という難儀の、その元というものを絶って、難儀の様相から、有難い様相へと転移していく。変わり移っていくと言う所に、信心の値打ちがある。だから性分が変わっていかなければおられんのである。馬鹿らしいのです、変わらなければ。
 「家柄人筋を改まるより、互いに人情柄を改めよ」と。心の状態というものが、向かうところが、いうならば、心情。人情が心情に変わっていく。水の性の人も心情を目指す。火の性の人も心情を目指す。そこへ一つになってくる。例えば、私と家内のことを言うならです。いうならば、どういう問題があったに致しましてもです。信心の教えを元にして話すから、答えがいつも一つになってくる。
 皆さんの場合は、どういうだろうか。いろんな問題が起きてくる。そこで家族中のものが信心しておるところはです。私は赤と思う私は白と思う。そんなら親先生にお伺いしてからという事になる。親先生にお伺いをしたらこう仰った。そこで問題は一遍に無くなってしまうのが、皆さんの状態じゃないだろうかと思うです。けれども先日はある人、相当永年信心してきてるんですよ。所が私に文句言うて来た。私は先生ここで二十年信心しよりますよち言うわけなんです。
 彼はどう言う事ですか。まあだ十年そこそこの信心じゃないですか。言うなら私は倍も信心しよるとに、あなたは信心の少なか方の者にひいきしよりなさる。というわけなんです。成程話を聞きよったら、ひいきしよるごたる感じもする。けどもよくよく考えよったらそうじゃない。どうでしょうか兄弟がある。お兄ちゃんが方にはちょっと是でこらえとかんのと言うて、おやつを一つやるでも少しばっかり。こまか方に余計やる。これがひいきでしょうか。これはひいきじゃない。
 親としてそれは当たり前の事なんだ。今は久富先生と私は毎晩一緒に晩酌するから、同じ私が特級酒飲んでから、彼には二級酒飲ませるちいう事は絶対無い。私が特級酒飲む時には、先生にもやっぱり特級酒飲んで貰う。是ならみんなが合点が行く。所がここ十年ぐらい前はどうかというと、秋永先生やら久保山先生あたりに、私はビールを出しよった。久富先生には私が焼酎を出す。それを見てです例えば第三者の人がです。
 まぁ合楽の先生は、片っ方の先生には焼酎どん出ぇちから、片一方の衆にはビールば出しちゃる。と言うてそれをひいきというならば、ひいきでしょうけれども、私はそれは同じ私の信心を頂いてくれた先生方ばっかりなんだ。だからそれは久保山先生に聞いた見なきゃ分からん、久富先生に聞いて見なければ分からんのである。親先生は結局それぞれが一番喜ぶものを出しておるだけの事なんだ。
 だから私が色々話した。そしたら二十年も信心している人ですから、いえ一遍ちょいと言うて見なけりゃ気持ちが治まらじゃったち言うわけなんです。皆さんでもそう言う様な事をですね、ちょっと間違うと親先生が、えこひいきしとると言った様なふうに思いなさるような事であっては、おかげにならんのです。親先生は私に一番最高のものを下さってあるんだと言う、やはり一つの思い込みというものが、段々出来てまいりませんとおかげにならん人情柄を改める。
 御道の信心をさせて頂いておる者がです。先日もここで結婚式をしてくれという。そして後の披露宴もここでお願いしたいんですけれどと言う。そらもう場所があるから良いどころじゃないけれど、あんたとこの近所の料亭はどげなふうになっとるのち言うたら、それがあーた、公道吉日の日ですけん、どこもここも満席になってしまってる。神前結婚お宮さんなんかは、トコロテン押し出すごたる事。ほんな次から次とこうやってやってる。そしてあぁたその日は、魚がえらい高こうしてからね。
 その高く付くち言うわけなんです。公道吉日の日だから。馬鹿んごたる。そるきん私が、わざわざ凶ですかね、悪い日にしろとは言わん。相手が信心がないから。けれどもまぁ良うもなからなきゃ、悪うもなかち言うごたる日はなかのち、私が申しましたから。それから、二人で話し合いなさったごたる。そるきん公道吉日という、その前の日にする事になった。さあおかげで料亭のほうも、お宅だけじゃけんどげなサービスでも出来るち言うごたる日におかげを頂いた。
 おかげで新婚旅行に出るでも、いわば新婚旅行の人達が、ガヤガヤする時じゃなくて、一日早よう行くから、何もかにもがおかげになってくる。だから本当に迷信を信じておると言う事は、これは極端な話だけど、そういう利害があるんです。利と害が。本気で私共がです。教祖様が教えて下さる。本当にお互いが人情柄が合えば、相性なんか問題じゃないのだと。日柄とか方位とか方角とかと言う様な事でもです。天地の中にそれこそ指で押すだけ、一点の所だってです。
 天地の親神様の御恩恵に浴してない所はないんだ。とより本当な事が分かった時にです。私共は自由無碍な心の状態で生活をして行く事が出来る。本当にいつどんな場合であっても、神恩報謝の心を以って生活をして行く事が出来る。今日は私はこの二つの御神訓を基にして聞いて頂いたけれど、「縁談に相性を改め見合すより、信の心を見合わせよ」と言う所を、信の心と言う所を、強調して今日は聞いて頂いた。次の人情柄を改めよという、ここん所を大体聞いて頂いたと思うんです。
 人情柄というものは、段々有難いほうへ、有難いほうへ変わっていくもの。それを御道流に言うならば、和賀心を目指して行くのだ。どういう問題があっても、そんなら親先生はどう仰るか。御神意はどうかとお伺いをして、そこに一つの答えが出てから、親先生が仰る神様任せ。親先生任せで行こうと言う人情に結ばれて行く所に、平和な生活があるのです。信の心をいわゆる、真の心をと教えられる。
 私共が信じておると言う事をです。愈々より本当の事を信じて行けれる。言うなら自分の心が、いつでも本当の事を発見したら、それにさっと移って行けれる人。どんなに素晴らしい人であっても、ただ自分の思い込みを変えていけない。十年前もやっぱ同じ事を言うとる。是では進歩がない。より本当の事を聞いて、あそこにさっと改めていくと言う事が、私は信の心と仰ってるのは、今日はそう言う事だという風に気付かせて頂いた。信と言う事は信心の信である。
 今日私が言うておる事。皆さんが今信じておられる事がです。より本当な事になってくる。いやあなた方の心の信が、成長していく限り、必ずより本当な事が分かってくる。それは子供がラムネの玉やら、パッチりやらを箪笥の中に入れて、もうそれこそ鍵を掛けんばっかりにして直しておるのと同じことなんだ。成長してきたらそんなものは、馬鹿んごと、何にもならないものだと言う事が分かってくるようにです。
 より本当なものが愈々、より本当な事を信じて、行の上にも現せて行けれる、本当の信心生活をお互い目指さなければいけません。さぁどこどこの大学の教授だと、言う様な文化人と言われるような人でもです。まあだ結婚をするのにです。相性を言うたり日柄を言うたり、家を建つるのにこげなふうに作くりゃ、是が一番使い勝手が良いと分かっとっても、家相が合わないからと言うて。
 わざわざ使い難いようにしてしまわなければならないと言う様な不自由な事を。まあだそれを信じて生活をしておる人が、世の中にはどの位多いか分からない。さぁ公道吉日の日ともなれば、とにかく料亭は満席。神社あたりの結婚式をやっておる所ではです。それこそ何十組という結婚式をしなければならんから、お供えもんどん買いよる暇はなか。それこそトコロテンを押し出すようにして。
 結婚式をバタバタ終わってしまう。それで気が済んでおるというから、ほんに馬鹿みたいなんだ。馬鹿みたいでしょうが。それを本当の事が分からせて頂くとです。自由無碍ないうならば料亭でも、みんなでサービスしてもらえる日に、旅行行くともいうなら寿司詰め的な汽車に乗らんでも、それだけでもおかげを受ける世界と、受けられない世界が違う事が分かるでしょう。
 それは本当の事が分かったからです。より本当な事が分かるからです。もっともっと私共の心が成長する。心の光が大きくなるとです。まだまだ間違いだらけの事を気付くでしょう。より本当の事が分かるでしょう。一生掛けて私共は愈々、より本当な生き方を、目指させて頂くと言う事がです。教祖はわが心が神に向こうていくのを信心というのじゃと仰る。信心する者は一生がまた修行じゃとも仰せられる。
 それは学者がメガネを掛けて、本を読むようなものであろうぞと言われるほどにです。いうならばあぁこげな年とって、こげな勉強せんならんとは思うていない。学徳が身について行く事が、ただ楽しい。勉強する事がとにかく楽しい。信心でもそう、信心の徳が身に着いて行くと言う事が楽しい。そういう尊い修行なのですから、修行と言うてもただ苦労というのとは、だた目が違うわけなんです。そういう信心の道をお互い日々、稽古させて頂いておると言う事になりますね。
   どうぞ。